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くらしと実学、実学のひとつである和算 岡山県津山市 文化・歴史 / 津山洋学資料館
2013 年12 月 23 日(月)

くらしと実学、在村知識人の活動 津山洋学資料館
会   期 : 平成25年11月30日(土)〜平成26年3月16日(日)
開館時間 : 9:00〜17:00、入館は16:30まで
会   場 : 津山洋学資料館 0868-23-3324

江戸時代、村に住む医師は、その地域を代表する知識人でした。
彼らは、算術や天文学といった、実生活に役立つ学問一実学によって、村民の生活をあらゆる面から支えました。
田熊村の中村家は医業のかたわら、実学のひとつである和算の知識をいかして様々な貢献をしています。
周辺の人々に算術を教え、土地の測量を行って地図を作製しました。
そればかりか、たびたび氾濫する加茂川の水から田を守るため、掘り抜き用水路の掘削工事まで指導しています。
今回の企画展ではそんな中村家の事績を中心に、在村知識人の活動の一端をご紹介します。
平成25年11月30日
津山洋学資料館

和算和算に挑戦してみよう
問題、
今、勾九寸、股十二寸の三角形の内に接する二つの等しい円があります。
この円の直径はいくらでしょう...
昔の人は和算でこの問題を解いていました

左図の問題が展示場内に掲げられています
和算で問題をといて数式を受付に提出して下さい
正解の場合、問題の横に氏名が掲載されます、挑戦してみてください

12/21日現在2人の正解者の氏名があります






くらしに溶け込む算術
わたしたちの暮らしに、数学はなくてはならないものです。
それがなくては経済をはじめ、日常のいたるところで生活が成り立たなくなってしまいます。
これは数学が算術と呼ばれた、普でも同じことでした。
古代に中国から日本へもたらされた算術は、次第に人々の暮らしになくてはならないものになっていきます。
農業にとって大切な暦を作るのにも算術は欠かせません。
また、住まいなどの建物も算術がないと、思い通りのものはできません。
江戸時代になって、農業中心の社会から、徐々に経済中心の社会へと変貌を遂げると、算術は生活にますます必要不可欠のものになっていきます。
そして、日本の算術は独自の発展を遂げ「和算」と呼ばれるようになりました。
また、算術の道具である算木やソロパンも身の回りにあるありふれた道具となり、浮世絵などに登場したり、デザインされて着物の柄などになったりしました。

中村家と地域
江戸時代、農村で開業する医師は、同時にその地域を代表する知識人でもありました。
田熊村の中村家は医業のかたわら、周辺の人々のさまざまな相談にものっています。
また、和算のほかに絵画や将棋など多彩な趣味を持ち、その方面でも地域に貢献しました。
美作の和算家として有名な周介は、京都の古方医で、日本初の人体解剖をした山脇東洋の師・後藤艮山の孫に医術を学び名医として周辺の人々から慕われたと伝えられます。
又、津山藩の絵師狩野如林について絵画を学び、多くの作品を残しました。
その腕前を生かし、田熊に程近い、河面にある清瀧寺本堂の天井に直径2.5メートルの鳳凰図を描いています。
周介とともに堀坂の暗渠工事を指導した甥の嘉芽市は暗渠完成後、江戸に出て、幕府天文台方の渋川佑賢らに師事しました。
修行後、郷里に戻った嘉芽市は、田熊村の庄屋として、村民の生活をささえました。

和算を教える
中村周介は、1750(寛延3)年、田熊村で生まれました。
後、京都に出、医学の修行をし、同時に関流和算家・青井正蔵のもとで算術の修行に励んでいます。
帰国してからも研鑽につとめ、数多くの門人を育てました。
中村家に残された資料の中に、周介宛の算道修行の「盟文」があります。
これを見ますと、田熊村だけでなく、周辺の村々からも教えを請いに、人々が訪れたことがうかがえます。
それだけに、1825(文政8)年に周介が亡くなると、多くの人が嘆き悲しんだと伝えられています。
周介の甥、嘉芽市は1806(文化3)年に生まれ、13歳のころから周介に和算を学び、奥義を受けるまでになりました。
幼いころより「神童」の誉れ高く、暗渠完成後、江戸に出て、算術修行をしました。
帰郷後、200人余りといわれる門人を育て、1878(明治11)年に亡くなりました。
同じ 田熊の八幡神社 には嘉芽市の門人が奉納した算額(額や絵馬に和算の問題や解法を記して社寺に奉納したもの)が残されており、津山市の 重要文化財 に指定されています。

測量と図面
趣味の世界であった和算を実用に供する、つまり、実学としてその成果を活用したのが、土地の測量と地図の作成でした。
江戸時代、測量は町間術(ちょうけんじゅつ)・量盤術(けんばんじゅつ)と呼ばれました。
実際に測ることのできない地点の距離を算出するために三角関数や代数がもちいられ、複雑な地形の面積を求めるには算額に記されたような幾何が応用されました。
中村家に残された資料の中にも、土地の測量や地図作成にかかわるものがたくさんあります。
周介は木村軍太忠雄という人物から南蛮流測量術を伝授されました。
実際に中村家には「南蛮流量盤 諸道具数々」と墨書された箱ふたが残されています。
また、方位と距離を測定する器具も現存しており、周介・嘉芽市はこれらの器具を駆使して堀坂村暗渠掘削という難工事をやり遂げたのでしょう。
その他にも、田熊村で新しく開いた土地を測量した図や、その際の杭位置の覚書などがあり、和算を実際の生活に役立ていたことがよくわかります。







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