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みまさかスローライフ列車 因美線全開通・那岐駅舎 80周年記念 イベント / 観光
2012 年9 月 12 日(水)
みまさかスローライフ列車
因美線全開通・那岐駅舎 80周年記念

因美線開通までの経由
「明治31年には中国鉄道により岡山から津山まで開通」山陰と山陽をつなぐ目的として当時の政府は軽便鉄道智頭線(鳥取ー智頭問、31、9km) を企画。
* 鳥取一用瀬大正8年12月20日開通。
* 鳥取一智頭大正12年6月5日開通。
大正7年の第41帝国議会では智頭線はさらに津山まで延長して「因美線」と改称し、山陰、山陽連絡の実現を期することに決定。
大正11年5月、岡山建設事務所が津山から、米子建設事務所が智頭からと両駅を起点として工事が進められた。
そして着工以来17年の歳月を経て
* [昭和7年7月1日」に因美線全線開通。

八頭郡の鉄道開通
姫路−鳥取間は横断、鳥取以西は縦貫の構想で当初着工された山陰線が、和田山を結ぶ完全な縦貫鉄道に設計変更となってからというものは、声を潜めていた陰陽連絡鉄道実現の運動が再ぴ激しさを増していった。
明治43年、それぞれ米子、倉吉、鳥取を起点とする横断線敷設の運動が極点に達し、当時の新聞紙上は三横断線の優劣論争でにぎわったという。
大正2年浜本義顕代議士らの発議で、衆議院や政府に陰陽連絡線建設促進を建議した。
ようやく八頭郡に待望久しい鉄道が開通したのは大正8年であった。
この年軽便鉄道の因美線が鳥取−用瀬駅まで、大正12年にはさらに智頭まで延長されている。
一方、若桜線も昭和5年に開通している。
これら二つの鉄道の開通は、地域沿線の長い間の願いであり、今日のようなモータりーゼーション以前の八頭郡内の文化や産業発達に多大な影響を与えた。
まず、山陰線の開通後寂れてきた旧宿場町の復活に現れてきた。
即ち、旧宿場町の多くが新しく鉄道駅の所在地となり、周辺の村々より駅を目指して貨客が集まってくるので、駅前には商店街や製材所などの小工場が立地する駅前集落が新たに形成された。
こうして地方の中心的な商工業の町として再び活気を取り戻すこととなった。
中でも目覚ましい拡大を見せたのが智頭であり、旧河原駅前(現国中一区)などの発展も見られた。
ところが逆に、それまで陰陽連絡の徒歩の交通路であった峠道は、ますます交通量が激減し、利用価値がなくなったので補修も行われず荒れ果てていった。
峠道の復活は、やがてトラック交適時代の到来を待たねばならなかったのである。

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因美線、河井駅〜智頭駅、車窓

因美線の開通
前述のごとく山陰縦貫線への変更により現在の因美線経由による陰陽連絡の期待が裏切られたことにより建設促進運動が再ぴ活発となった。
すでに明治31年には中国鉄道により岡山から津山まで開通していたが、山陰線の全通はますます山陰線中央部と山陽本線との連絡を必要とした。
そこで政府はとりあえず軽便鉄道智頭線(鳥取−智頭問、32.9Km)を企画し、米子建設事務所の所管とした。
将来的に智頭から海山を結んで中国鉄道で岡山へ、また姫新線を敷設して姫路への連絡路線を考慮したものである。
智頭線の敷設工事は三工区に分け、第一工区鳥取〜国中間が大正5年2月、第二工区国中〜用瀬間が大正六年11月に着工された。
途中、第一次世界大戦のため中断したが、ようやく大正8年12月20日白鳥取〜用瀬間の開通を見たのである。
列車編成は混合列車で客車六両、貨車四両で、一日六往復であった。
さらに大正10年4月には第三工区用瀬−智頭間に着工し、大正12年6月5日に開通をし、盛大に祝賀行事が行われている。

智頭用瀬間地価大暴鵬、鉄道敷地買収には土地収容法適用か米価騰貴と智頭用瀬間鉄道敷地買収の声に、地価すこぶる騰貴し、目下田地は買手の呼声一反歩2千円以上、宅地は最高坪1OO円、宅地隣接地の畑の如きも、坪2O円を下らざる有様なるが、なお、売手皆無にて用瀬智頭の如きも鉄道当局の査定とは、雲泥の差ありて到底買収に応ずる者なき有様なる故、智頭町にては、大地主協定の結果、田地一段歩1200円、其の他はこれに準ずることとして買収に応ずることに決定せる由なるが、良田にありては一段歩6700円以下にて手ばなすまじき形勢なれば、大地主側は別として其の他は折り合いがつかざる様様なれば遂に土地収用法を適用するに至らんかと。
(大正九年一月七日鳥取新報)…

自転車で汽車を追っかける
19日、用ヶ瀬発の上り列車が貨車一両を連結するのを忘れて発車、駅員が自転車で汽車を追っかけ、それを知らせた。
汽車を自転車で追いかけたとは面白いが、貨車を忘れて発車するなど「汽車まで人を佐治谷にするない」と、乗った客がコボス。
(大正9年1月26日鳥取新報)

これより先、大正7年の第四一帝国議会では智頭線はさらに津山まで延長して因美線と改称し、陰揚連絡の実現を期することに決定した。
こうして大正11年5月、岡山建設事務所が津山から、米子建設事務所が智頭からと両駅を起点として工事が進められた。
この間、因・美国境の標高400mを貫く物見トンネル(3075m)は難工事であった。
かくして因美線が関連したのは昭和7年7月1日のことである。
陰陽連絡線実現にかけた県東部の人々の悲願は、着工以来17年の歳月と6,0OO,000円余の巨費を費やしてここにめでたく完成した。
さらに昭和19年6月には、中国鉄道の岡山−津山間が国に買収され、鳥取と岡山を結ぶ国有鉄道が完成した。
それから4年後の昭和23年には、中央縦貫線姫新線の全還により海山経由で姫路に至る鉄道連絡が完成し、明治以来の長年の夢は着工以来32年の星霜を経て実現したのである。
昭和31年に東郡家駅(駅員無配置)、36六年に鷹狩駅(駅員無配置)を新設した。33年からディーゼルカーが運行され、62年には民営化されJR西日本へ移管している。
ところで、鳥取−釜ロ間が現在の路線に落ち着くまでにはA通過点をめぐる論議が繰り返されている。
というのは、千代川に沿い西岸を通る線と東岸を通る線が比較検討された。
この両線は平坦で工事は容易であるかに見えた。
しかし、西岸は往古の流路でもあり両岸とも洪水の被害が心配されたうえ、大きい鉄橋を一つないし二つを必要とし工事費がかさむと考えられた。
また、八頭郡東半部の生産カの旺盛な各村に遠ざかり、著しく鉄道利用の範囲を縮小するので不利とみられた。
その上、当時政友会内閣であったため、八頭郡東部出身の政友会系代議士の運動が功を奏し、東よりの現在の路線に落ち着いたのであった。
若桜線敷設の動きは明治22年頃に認められるが、当時国鉄山陰本線の構想に「舞鶴−豊岡」と「宮津−出石−若桜−鳥取」のニ案があった、二つの路線の優劣は容易に決定しがたいものがあり、双方沿線の町村で敷設運動が行われたが、若桜線沿線有力者の中には農地が減るということで傍観的な人々もあった。
結局明治45年現在の山陰本線全通の結末となった。
八頭郡を通るルートは山地が多く人家・通行の人馬も少ないうえ、貨物の集散、物産もわずかで、しかも姫路−鳥取の路線に近いとされたのである。
若桜線敷設問題は大正6年頃より再燃し、大正9年に沿線町村の「若桜線鉄道期成同盟」が結成された。
大正12年、鉄道省告示第61号で米子建設事務所の所管とし、線名を若桜線と命名して建設の運びとなった。
工事は二工区に分け、第一工区郡家−隼間は昭和2年12月、第二エ区隼−若桜間は昭和4年3月に着工した。
総延長19.2Km、建設費131万円余、三年間にわたる工事を終え、第一工区は昭和5年1月20目、第二工区は同年12月1日に開業し、若桜谷住民の期待を担って開通式が盛大に行われた。
開業後は鳥取−若桜間で運行され、車両は利用者で一杯であった。
こうして八東川流域の主要な交通路として産業・文化の発展に大きく貢献することとなった。
明治20年頃から、姫路−鳥取間を結ぽうという鉄道敷設運動が、沿線住民などによって始められた。
大正11年に施行された鉄道敷設法には「兵庫県上郡より佐用を経て鳥取県智頭に至る鉄道」とりう表現で、敷設予定鉄道路線として明記されている。
昭和9年、兵庫・岡山・鳥取三県の関係一八町村が「智頭・佐用線鉄道期成会」を結成し、本格的建設運動を展開した。
昭和37年には、智頭−兵庫県上郡間が鉄道建設審議会で智頭線として工事線に採択され、明治以来百年の願望を経て沿線住民の悲願が実ることになった。
昭和41年6月に旧国鉄線として工事に着手されたが、工事を95% 終えながら昭和55年、国鉄再建のあおりを受け工事が凍結、国鉄線としての建設は道を閉ざされてしまった。
しかしながら、沿線住民の願いは根強く、兵庫・岡山・鳥取三県は第三セクター化の道を模索、数年間に及ぶ協議を経て、61年に「智頭鉄道株式会社(現智頭急行どが設立され、ようやく62年に工事再開にこぎつけた。
平成4年からは高速化を望む声に応え、高規格化事業もスタートした。
平成6年6月21日には全線56.1Kmがレールで結ばれ大原駅でレールの締結式が行われ、着工以来28年ぶりに一本のレールで結ぼれた。
7月には開業日が12月3日と決まり特急四往復の運行がほぼ決定、10月には運賃や料金も認可され開業体制が整った。
11月2O自には「スーパーはくと」試乗会が行われているが、全国から38倍の5042名の応募ぶりであった。

陰陽連絡の夢 因幡から美作を越えて
境から米子、鳥取を経て姫路を結ぶ山陰山陽連絡線が、鳥取から和田山を結ぶ「山陰縦貫線」に変更されたのは、御来屋−八橋間の工事が完成に近づいた明治36年(1912〉のことであった。
その年の4月の帝国議会で山陰縦貫線への変更が決定し、さらに明治39年(1906)には、和田山−境問の山陰縦貫線は福知山−今市間に延長され、当初予定された山陰山陽連絡線のルートは完全に消えてしまった。
陰陽連絡線の夢が期待できなくなった鳥取市や、八頭郡の人々は、一度は諦めたものの、明治45年(1921)に京都−出雲今市間が開通すると、再び陰陽横断線の建設促進運動を起こした。
運動のかいあって大正2年(1913)、衆議院議員浜本義顕らの発議で、衆議院はその重要性を認め建設促進を政府に建議した。
これによって建設はほぼ確定し、鉄道院は大正3年3月に、軽便鉄道根雨線同様、とりあえず軽便鉄道として、鳥取−智頭間に智頭線を建設する計画を発表した。
軽便鉄道智頭線は当初、鳥取−用瀬間に、予定線と二つの比較線があげられていた。
予定線は鳥取駅から吉方、美保、面影、海蔵寺、祢宜谷、堀越、郡家、国中、米岡、郷原、釜口、六日市、鷹狩を経て用瀬に至る線であった。
比較線の一つは鳥取駅から美保、倉田、円通寺、片山、高福を経て釜口、六日市、鷹狩、用瀬に至るもので、これを千代川東部線と呼んだ。
比較線のもう一つは、鳥取駅から千代川を渡り、古海、蒲野部−河原、曳田、八日市を経て六日市、鷹狩、用瀬に至るもので、こちらを千代川西部線と呼んだ。
三派の誘致運動は日を追うにしたがって激しさを増していった。
特に西部線建設を希望する河原村は、二町四反の土地提供を条件に敷設運動を熱心に進めていた。
この河原村に呼応して、鳥取市の西に位置する気高郡も、「郡内の産業の発展と、郡民の福利増進のために、智頭線は必要な路線である」として、気高郡会議員三村来光の名で「鳥智軽鉄線意見書」を提出、千代川西部線の建設を陳情した。
だが、比較線の千代川東部線、西部線とも千代川沿いで、洪水の際に災害の恐れがあること、八頭郡東部の生産力の豊富な地域から遠ざかり、鉄道の利用範囲が縮少する、などの問題点が挙げられ、不利な状況におかれた。
一方、予定線は若桜街道沿いで、郡家、入東、若桜というこの地方の中心部を控え、林産物の出荷も大いに期待できるとみられていた。
結局、軽便鉄道智頭線は、予定線の路線に決定した。
この決定についてある風評が立った。
そのころ八東の地域は、当時の政友会の地盤であった。政友会の政治力が強かったころである。
明治44年8月に司政友会総裁西園寺公望の第二次内閣が成立、その西園寺内閣が総辞職した大正1年12月に第三次桂内閣、ついで翌大正2年2月山本内閣が成立した。
陸軍の桂太郎、海軍の山本権兵衛とも、政友会の支持があって首相に就任することができた。
そういう時代背景があったころで、智頭線が予定線に決まったのは、政治のカによるものだというのである。
真偽のほどはともかくとして、それほど政友会の強い地盤だったということだろう。
風評はそのうちに消えてしまった。
こうして、西の根雨線と同じ大正4年(1915)7月、実測に着手し、翌5年12月智頭線は着工した。
工事は三工区に分けられた。
第一工区は鳥取i国中(郡家町)聞の14.1Kmであった。
鳥取平野を南下して進んだ工事は、桂木付近から上りにかかり、やがて1000分の20の急勾配がつづく丘陵地帯に入る。
そのため切り取り工事と築堤工事が多い工区となった。
どれほど難関というほどではなく、工事は順調に進む予定であった。
ところが工事は遅れた。工事を遅らせたのはここでも第一次世界大戦だった。
第一次世界大戦の影響を受けたのは、大正6年(1917)11月に着工した第二工区の国中−用瀬間も同様だった。
第二工区では、268メートルの柏越トンネルの掘削と、医玉山の断崖に苦しめられた。
トンネル掘削は、1OOO分の20の上り勾配を上りきった所から始まるが、岩質が堆積岩の一つである水成岩で硬く、一日に平均90センチしか掘ることができない。
日によっては、わずか22センチぐらいで終わるときもあった。
医王山の岩肌が迫る箇所では、崖を削り、土留用のコンクリート擁壁と金網櫛を設け、法面の亀裂や崩落を防いだ。
第一、第二工区とも手がけることができたのは土木工事までだった。
鉄材の暴騰で、レールや橋桁の供給がままならなくなったのだ。
袋川、大路川、私郡川、八東川、赤波川の橋梁の桁材はいうまでもなく、そのうち枕木までも不足し、レールの敷設工事と橋梁の架設工事は一時中止することになった。
悪いことは重なるもので、資材不足のうえに、労賃の高騰から契約単価の割増という問題が出、大正7年8月に工事契約をいったん解除することになってしまった。
そうする9月には、山陰地方を襲った豪雨により、せっかく完成していた土工の一部が崩壊する被害を受け、工事の竣工はいずれにしても大きく遅れることになった。
この事態を憂慮した地元では、陰陽連絡期成同盟会の会長石谷伝四郎ら有力者をはじめ公共団体代表者らの連署で、「鳥智軽鉄速成請願書」を鉄道院総裁に提出した。
「材料の欠乏により、一時的に手順の間違いがあるのはがまんできるが、風説のように、運動のやり方しだいで、予定の工事が変更されるようなことになれば、その弊害は計り知れないほど大きいものがある。
土木エ事はほとんど竣工しているのに、枕木やレールの不足のためにあとの工事が進捗していない。
この不経済な現象を解消するためにも、公平均等の方針を取られ、ぜひ予定期間内に鳥智線が竣工するよう、御配慮いただきたく請願する」と訴えたのだった。
大正7年は暗いことばかりでもなかった。地元の暗雲を払いのけるような、嬉しい出来事もあった。

その年に関かれた第41回帝国議会は、智頭線を津山まで延長し、伯備線と同様に、陰陽連絡線としてその実現を期すことに決定し、線名を因美線と改称した。
翌大正8年(1919)2月、地元の請願と関係者の努力によって工事は再開した。
工事は急ピッチで行われた。日に三往復から四往復、砕石や砂利が工事用列車で用瀬まで運ばれるようになった。
長年待っていた鉄道ができる。それも一日、一日、形になって自の前に現われる。
「ポー」という汽笛が聞えると、村の人々は野良仕事の手を休めて集まった。
「これで鳥取まですぐ行けるぞ」「早ょう汽車に乗ってみたいもんだなあ」「長生きLてよかったわい」
涙を浮かべながら囁きあう老人もいて、開通する前から、建設中の停車場付近は集まってきた人たちで賑わった。
終点となる用瀬では、開通式当日にはどのような行事を盛り込むか、検討も始められた。
その開通の日取りが発表されたのは大正8年11月2O目だった。
それによると、因美軽便線鳥取−用瀬間の開業日は、一カ月後の12月20日とされた。

駅長は津ノ井、郡家、河原、用瀬に置く。河原と用瀬のほぼ中間に位置する国英駅は、簡易駅として駅員を配置せず車掌が取り扱う。
運転本数は鳥取−用瀬間を混合列車で一日に六往復。編成は客車六両に貨車を四〜五両。運賃は鳥取−用瀬間三等 28銭であった。
汽車賃 28銭というのは、当時の白米一升代より安い価格だった。
大正8年の米価は前年の米騒動のあおりを受けて高騰していたからだ。その米価も昭和に入ると、白米一升が25銭ぐらいに落ち着いた。
当時の汽車賃はやはり、けつこうな値段だったということになるだろう。国中村に設置された停車場に「河原」の駅名がついたのは、河原村の熱心な陳情があったからだった。
千代川西部線を全村挙げて請願したにもかかわらず、念願がかなえられなかった河原村は、「停車場に、ぜひ河原の名をつけてほしい」と請願。
その願いが受け入れられ、開業間近になって、国中の停車場は「河原」に決定した。
簡易駅としてスタートした国英駅に、駅員が配置され、乗車券の発売が行われるようになったのは、因美線が智頭まで開業した大正12年6月。
さらに一般駅としての機能を備えたのは、駅舎が拡張され、手小荷物を取り扱うようになった昭和1年(1926)12月からのことであった。
大正8年12月2O日の開通式の日、終点の用瀬村一帯では、どこの家も国旗を掲げ、軒下には提灯をつり下げて「鉄道開通」を祝った。
駅前をはじめ村の所々には緑門が立ち、小学生の旗行列がつづき、花火が打ち上げられた。
また鳥取新報社の花自動車が登場したり、山車がくり出したり、手踊り、芝居も賑やかに開演された。
このほか、他地区ではあまり例を見なかった相撲大会や、マラソン大会も行われ、用瀬村や周辺の村々は、鉄道開通の喜びに沸いたのだった。
用瀬駅がまた大賑わいだった。長さ10メートルほどの機関車が、マッチ箱のような客車に満員の乗客を乗せて、プラットホームに入ると、降りてきた客とこれから乗ろうとする客、それと見物人とがごっちゃになって、大変な混雑ぶりであった。
駅でのこの騒ぎはしばらくの間つづいた。

用瀬から智頭までの工事は大正1O年(1921)4月に着工した。
狭い山間を流れる千代川と、智頭街道に沿っての工事だった。そのため、土留工事と護岸の石垣造りが多かった。
この工区の難関な箇所は、市瀬地区付近と鳥の巣十ンネル南ロの切り取り工事だった。
突き出た断崖を削つては進んだ。鳥の巣トンネルの南口は粘土質の土で、何回か崩落したが、幸いな戸ことに大きな被害にならず、用瀬−智頭間10.8Kmは大正12年(1923)6月5日に開業した。
このころの因美線の機関車は、当時の伯備線と同じ、230形式と2120形式の蒸気機関車が使用されていた。
230形式は、境−御来屋間が開通したときに使用された、国産のA−10型と同じ形式で、全長9.8メートルのタンク機関車である。
2120形式は、元はイギリスから輸入されたB6六形式で、動輸が二輸のタンク機関車だった。
その後、動輪三軸に改良され、明治42年(1909)の機関車形式の制定により、初期のものが2100形式、そのあとのイギリス製と国産車が2120形式となった。
全長10.4メートルの機関車だが、勾配線に強く、当時の代表的なタンク機関車と言われていた。
その2120形式の機関車が、マッチ箱のような車両とはいえ、六両の客車と五両の貨車をけん引して、1000分の2Oの勾配を黒い煙を吐きながら、力強く上っていく。
沿線の人々にとって、これほどたのもしいものはなかった。
「すげえもんだ。一度でええ、汽車に乗ってみたいのう」そう思うのは、もっともなことであった。

因美線が、岡山県の津山側からも工事を進めることになったのは、大正一一年五月からだった。
この年の九月、因美軽便線は「軽便線」の呼称を廃止し、因美線と呼ぶことになった。
倉吉軽便線が「倉吉線」と改称したのと同じ時である。
そのころ鳥取側の工事は、すでに鳥取−用瀬間が開業し、用瀬から智頭までの工事が進んでいた。
津山からの工事は、智頭までが岡山建設事務所の所管となり、工事期間中はこの区間を因美南線と呼ぶことになった。
したがって、一方の米子建設事務所の管轄である鳥取−智頭間は、因美北線と呼んだ。
南線の第一工区は津山−高野間だったが、この工区が着工したのは大正15年(1926)2月のことである。

那岐駅舎運営委員会 会長 谷口尚一郎|
私この度、那岐駅舎の総会において会長に選任され重責を感じております。
また竹下前会長さんには、長年にわたり駅舎の運営にご尽力を頂き、誠にありがとうございました、心より感謝申し上げます。
さて、私の知る駅舎ですが、戦時中は区民が日の丸の小旗を振って多くの若者を出征兵士とLて戦場に送り出し、やがて白木の箱に入った遺骨が白布に包まれ英霊としてひそかに帰ってくる様を、この世の喜びも悲しみも見つめてきた。
また、戦後の復興期、材木景気に沸いた時代、まだ自動車は少なく鉄道が唯一の輸送手段だった頃、大量の製品や素材が貨物で積み出されるなど、今日に至る盛衰を見守るど共に、地域の発展に大きな役割を果たしてきました。
堀のある前庭、裏の築山は当時の駅員さん達が木馬や木工を使って石を集め庭木を植えるなど、勤労奉仕で造られたものです。
多くの通勤通学の人達も憩いの場所でもありました。今、築山のある駅舎を見ようと訪れた鉄道マニアが驚くのが駅舎診療所である。
戦後65年が経ち、役割は大きく変わり、JRから地域に任された駅舎ではあるが、縁あって授かった駅舎は那岐の歴史、那岐の文化のーつとし次世代に引き継がれる事と、世代間を超えて多くの人が集い、交流の輸が広がる場となる事を願っております。
皆様の更なる御理解、御協力を賜ります様宜しくお願し、申し上げます。平成22年8月

那岐駅について古田敬泰
因美線が昭和七年に開通して那岐駅ができました。
当時は那岐地区の皆様が多く利用して那岐駅通りは活気がありました。
駅を降りてすぐ飲食店や、お店があり繁盛していました。
保育園、那岐小学校の先生方も国鉄を利用して通勤し、栄えた那岐駅でした。
ところが時代と共に車の社会となり利用者が少なくなって、ついに那岐駅も平成12年3月12日、無人化となりました。
駅舎維持の声がもち上がり、那岐駅舎運営協議会が結成されました。
駅舎運営も区民の皆様の暖かい寄付を項き存続となりました。そして、財産区からの援助により、平成20年3月から那岐駅舎を使用して、那岐診療所が開設。毎月第二火曜日と第四火曜日、午後2時からが診療日となっています。区民め皆様にお知らせします。
また駅舎は福祉の拠点として区民の人に利用して頂き、ますます発展することを願っています

ぶらっとほーむ・那岐駅舎便り発刊について 古谷祥一郎
那岐駅は昭和7年に開通してから現在まで、様々な出来事を見続けています。
時代に違いはあれ那岐区民の方々はそれぞれの思い出があると思います。那岐駅舎が無人化となっても毎日階段を上り通勤、通学などで駅を利用しています。
因美線の駅のなかでも駅全体がもっている美じい景観は、他と比較になりません。私自身学生の時は駅に対して何も感じなかったのですが、平成11年こちらへ帰った時、那岐駅を見て感動したことを今でも思い出します。
プラットホームから階段を下っていた瞬間、ここの空間でギャラリーができたらいいなと。そしてすぐに駅員さんに問い合わせをして、津山駅までお願いに伺いました。了承えて階段を利用したギャラリーが誕生。那岐小学校六年生の絵をお借りして展示しました。
その後は階段を客席にして、知人のコンサートを行いました。
こんなふうに那岐駅に関わることになるとは思いもしなかったのですが、現在、運営協議会のメンバーとして地域の方々にお世話になり、今後の活用を模索していますので、皆様のお力と協力をお願い、いたします。
この新聞で那岐駅や那岐駅舎のことを知っていただければ幸いです。
*那岐駅をギャラリーとして利用
*那岐診療所*階段ギャラリー
*ボランティアによる那岐駅舎の大掃除毎年6月に実施
*智頭町役場那岐支所
*汽車の走る風景



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