|
|
|
東海山 本源寺 津山藩主森家の菩提寺 国指定重要文化財 |
文化・歴史 |
|
|
東海山 本源寺 津山藩主森家の菩提寺 本源寺は、足利尊氏が安国寺のひとつとして美作国神戸村に建てたのが始まりといわれています 慶長12年(1607年)、津山藩主森忠政により万松山龍雲寺に名を改められ、現在地に移転されました 森忠政の50回忌にあたる天和3年(1683年)、本源寺に名を改められました 境内には、森忠政(本源院殿)らの墓があります
◆ 本源寺が国重文に指定されました 本堂、霊屋、庫裏・・・5棟 桃山〜江戸期建築 国の文化審議会が5/17日に文部糾学相ヘ答申した重要文化財に、津山藩森家ゆかりの「本一源寺」が指定されました 本堂、霊屋(たまや)、庫裏など5棟を指定 本源寺は慶長12(1607)年の創建で、森家の菩提寺として知られ、本堂は創建期の建物で、入り母屋造り桟瓦葺き(さんがわらぶき)、当初は板葺きだった 古材の残存率が高く、腰高障子など建具も残る 霊屋は寛永16(1639)年の上棟で、初代藩主・忠政ら一門の位牌を安置、唐破風銅板葺きで往時は桧皮(ひわだ)葺き、建材にツガなどが使われています 庫裏は延宝年間に建てられ、切り妻造り桟瓦葺き、江戸中期などに改修されたが、古い柱や梁,(はり)が桃山時代の風ぼうを漂わせる、このほか中門と霊屋表門、つけたり棟札1枚 いずれも大名家菩提寺として桃山時代から江戸時代にかけて整備された建物が一体的に残され、臨済宗寺院建築初期の遺構としても価値が評価されました 本源寺第23世 華山義道住職
本源寺住職と山田みね子さん対談
◆ 東海山本源禅寺 興国元年(一三四O)南北朝の頃、夢窓国師の発起に依りえ利尊氏が国家安全を祈願して、属国六十六ヶ所、島ニヶ所に安国寺を造営する。 当寺は、旧西々条郡神戸村(現津山市神戸)に創建された美作国安国寺の後身で、開基は足利尊氏、開山は不明である。 創建当初は臨済宗の五山派であったと思われる。現在の場所に移されたのは、慶長十二(一六O七)年で、中興開基は、津山藩初代落主森忠政公である。現在は臨済宗妙心守派の禅寺である。 森忠政公は、清和源氏八幡太郎義家の後とも後で、織田信長の忠臣美濃兼山城主森可成の六男として、元亀元年(一五七O) に兼山で生まれる。 しかし、忠政公誕生と同年の四月に信長の朝倉攻めに際し、越前国手筒山にて長男可隆(十九歳)が、九月には浅井、朝倉軍に敗れ父可成(四十八歳)が相次いで戦死した為、次兄長可が森家の家督を継ぐ。天正十年(一五八二) 本能寺の変で織田信長と共に、三男乱丸(十八歳)、四男坊丸(十七歳)、五男力丸(十六歳)が戦死する。 信長の死後、森長可は池田恒興と共に羽柴秀吉に付くが、天正十二年、長久手の合戦で長可〈廿七歳)が戦死し、六男の忠政公が十五歳にして父と五人の兄を亡くし兼山城主となり家督を継ぐ事となる。 秀吉に仕え信頼を得た忠政公は、羽柴の姓を賜る。秀吉亡き後、徳川家康の信頼を待て、慶長五年(一六00)に美濃兼山七万国から、次兄長可の旧領(信長が武田家を滅ぼした時の、褒美として長可に与えられた地)信濃川中島の埴科、更級、高井、水内四那十三万七千五百石に封ぜられた。 そして、関が原の功績により慶長八年(一六O三)二月六日、家康が将軍となる六日前、三十四歳の時に美作一国十八万六千五百石を徳川芳忠より拝領する。 忠政公は美作国主として入封、ひとまず院庄の旧美作守護所近〈に居を構え、また近くの安国寺を森家菩提所と定める。 一年かけて城地の選定をし、翌九年に鶴山に築城を開始する、と同時に安国寺を小田中村に移し、海晏禅師を迎えて「萬松山安国寺」中興の祖とした。 三年後の慶長十二年に、安国寺を西今町の北(現在地)に移し「萬松山龍雲寺」と改号する。 海晏禅師筆の龍雲寺本堂棟札に「慶長十二年十一月、津山城主羽柴忠政公が城より西ヘ数十町の処に龍雲禅寺を草創」とあるように、城の真西にあたる現在地に移した。 忠政公は慶長九年に鶴山を「津山」と改めており、この棟札が津山という地名使用最古の例とされている。 江戸幕府が開かれたとはいえ大坂の陣の前でもあり、戦国の熱さめやらぬこの時期、より戦を念頭に置いた城と城下町造りが始まる。 津山城は五層の天守を始め、七十七を数える櫓、四十近い城門など百数十の建築物がひしめ〈壮麗な城で、十二年かけて完成した。 城下の町造りも防衛上の理由から、寺院を城の東西に集中させ寺町を形成した。 18世紀初頭には、域の西に二十四ヶ寺、東に十ヶ寺と城西に寺院が多〈、また津山城の天守も西を見渡せるように建っており、城下防衛は西側に重点が置かれていた。 龍雲寺の広大な境内は、城下の西側の重要な防衛拠点ともなっており、堅固な中門の両脇には、石垣と武者走りの跡が現在も残る。 寛永十一年(一六三四)七月七日に京都で忠政公は急逝し(六十五歳)、船岡山の麓で火葬後、大徳寺三玄院(一五八九年に、石田三成、浅野幸長、森忠政公の三人が建主)に葬られた。 忠政公の突然の死は美作の人々に大きな衝撃を与えた。この日は七夕祭りに当たるため、美作ではこの忌日をさけて七夕祭りを行うようになったと伝えられてる。 「桃」の食害で?亡くなられたとも言われており、当山では忠政公に桃はお供えしないという事になっている。
忠政公が亡くなった同年八月三日に、二代藩主長継公は二条城で遺領相続を認められる。 その五年後、寛永十六年(一六三九)に、長継は忠政公の御霊屋を龍雲寺(本源寺)に建立。 五輪の塔も同時に建立されたものと思われる。延宝二年(一六七四)長継の嫡男忠継(三十八歳)が逝去、龍雲寺に葬る。後年、忠継の御霊屋が境内に建立されたが、残念ながら之は現存しない。 天和三年(一六八三)忠政公五十回忌に当たり御戒名『本源院殿前作州太守先翁宗進大居士』に困み、寺号を「龍雲寺」から「本源寺」に改める。 貞享三年(一六八六)長成が十六歳で元服し四代藩主となる。この頃五代将軍綱吉が「生類憐みの令」を政策(一七O九年廃止)、長成は元禄八年(一六九五)武蔵児玉郡中野村(現求京都中野区)に、御犬小屋普請を仰せ付かる。大変な労力の末、無事期日内に完成させた。しかし、二年後の元禄十年(一六九七)六月に、長成(二七歳)が逝去した。 二代藩主長継の九男関衆利が、長成の末期養子として幕府から家替相続を認められるも、同年七月、重病に倒れ、跡目相続不能となり、津山藩森家は改易となる。 改易後、森家は赤穂藩森家・三日月藩森家・新見藩関家の三家に分かれる。 本源寺は、森家四代九十五年間の時代、寺領を寛永三年に百石、寛文九年に二百石を領し、総門から中門までの参進両側は蓮池や松林のある庭であった。(現在は農地改革により失う) また、出雲街道を西今町から北の本源寺への曲がり角は、本源寺への入りロということで、「本源寺ロ」と呼ばれていた。 津山藩主が松平家十万石に代わった後、寺領は藩財政の事情もあり滅ぜられるも泰安寺、妙法寺とあわせ津山三箇寺と称して諸寺の上におかれ、以後は森家・津山藩松平家両家の庇護を受け明治を迎える。 安国寺中興、龍雲寺創建は海晏禅師であったが、故あって閉山(初代)は天倫玄節禅師とする。 その後、海晏禅師は、慶長十四年に伊達政宗の請に応じ松島の端巌寺九十六世となる。 天倫禅師により元和年間に山号を「東海山」と改め、五世夢堂和尚の代に「本源寺」と改号。 本堂には御本尊に釈迦牟尼仏、右に達磨大師、左に木像森忠政公像(寛永八年(一六三一)作で、公六十二歳の寿像)を祀る。鎮守は弁才天。また、森忠政公御守本尊の十一面観音が伝わる。 赤い厨子に入っており、大きさは、台座から光背まで7寸5分(約28.5cm)。 本堂西の御霊屋には現在、忠政公をはじめ二代長継、三代長式、四代長点、父可成、丸長可、乱丸、坊丸、カ丸、忠政公奥方等、森家と関家と松平家、全二十九柱の御霊碑を安置する。 森家墓所は、正面の五輪の塔が忠政公で、全七基中一番大き〈、高さ約五メートル、幅三・三メートル向かって左が、慶長十二年に三十三歳で逝去された公奥方の智勝院殿(於岩)の基。名護屋氏の娘で重臣秀長の養女。右は忠政公の次兄、森武蔵守長可の供養塔等、全七基。 長可は、家替の順では忠政公の先代に当たる。織田信長に仕え多〈の戦功を上げ、一騎で雑兵千人に値すると恐れられ、鬼武蔵として勇名を天下に馳せる。 天正十二(一五八四)年、小牧の役で豊臣秀吉に従い、長久手の合戦で徳川家康に対して奮戦し鬼武蔵の面目を発揮するも、池田恒興、之助親子らと共に武運拙く戦死。長可の妻は恒興の娘であった。 文化財は、本堂・庫裏・中門・御霊屋・御成門が国、大名墓七基が県、森忠政公像が、市指定。 七月七日は、津山藩初代藩主、本源寺開基森忠政公の御命日です。 毎年この頃に年に一度、御霊屋の扉を開きますので、皆様どうぞお参りにおいで下さい。 ※お問い合わせ電話番号「0868-22-7351」
大きな地図で見る
|
|
|
|
|
|
|