つやま城下町 町歩き |
2013. 12. 20(金) |
観光 / 町歩き 津山藩全域 |
津山の城下町 【つやまのじょうかまち】 森忠政公が津山藩主として入封したのは慶長八年(一六〇三)のこと。築城と城下町造成の事業はその翌年から着手した。そして城は元和二年(一六一六)に完成し、城下町 ...続きを読む |
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安岡町と義信神社 |
2013. 12. 3(火) |
観光 / 町歩き 城西地区 |
安岡町 【やすおかまち】 津山城下町の西の堺となる町で、町名はこの地域から北に広がる丘陵地の名から付けたとされる。 町並は寛永頃(一六二四〜一六四三)には成立し、その後、寛文頃(一六六一〜一六七 ...続きを読む |
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茅町と若宮神社 |
2013. 12. 3(火) |
観光 / 町歩き 城西地区 |
茅町 【かやまち】 江戸時代前期の絵図では、西寺町から吉井川土手まで続く町並みとして描かれ、安岡町ができるまでは、この町が城下の外れであった。その頃は、萱屋町と表記され、城下の東の端にも萱屋町が存 ...続きを読む |
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鉄砲町とその通り道 |
2013. 12. 10(火) |
観光 / 町歩き 城西地区 |
鉄砲町 【てっぽうまち】 森藩時代に鉄砲足軽の屋敷を配したことが名前の由来とされ、絵図には鉄砲者屋敷という記載も見られる。また、江戸時代の初めには、城東地区にあった鉄砲町に対して、西鉄砲町と呼ばれ ...続きを読む |
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西寺町の寺院 |
2013. 12. 8(日) |
観光 / 町歩き 城西地区 |
西寺町 【にしてらまち】 城下町の建設期には、武士や町人など、多種多様な宗派の人々が集まり住むことによって城下町ができた。そうした人々の必要に応じて、津山藩は、城下町の東西の端に各宗派の寺院を集め ...続きを読む |
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西今町会館 |
2013. 12. 6(金) |
観光 / 町歩き 城西地区 |
西今町 【にしいままち】 城下町建設当初は町場ではなかったが、寛文年間(一六六一〜一六七三年)城下町に編入された。古名を「茅町」といったが編入時に改名したと伝えられる。東側を流れる川沿いの通りを蘭 ...続きを読む |
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宮脇町と徳守神社 |
2013. 12. 3(火) |
観光 / 町歩き 城西地区 |
宮脇町 【みやわきちょう】 城下町建設からしばらくの間、道路の北側は田町の武家屋敷地で、南側は徳守神社の境内と南新座の武家屋敷地であった。 明暦元年(一六五五)、道路の北側に面していた二軒の武家 ...続きを読む |
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福渡町とその町 |
2013. 12. 1(日) |
観光 / 町歩き 城西地区 |
福渡町 【ふくわたりまち】 坪井町や勝間田町などと共に、移住者の出身地の地名を町名としたと伝えられ、福渡村(現岡山市)からの移住者による町であると言われる。 また、当初の城下町の南西の人口の町と ...続きを読む |
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南新座と偉人たちの生誕地 |
2013. 11. 28(木) |
観光 / 町歩き 城西地区 |
南新座 【みなみしんざ】 元和三年(一六一七)の春に城下町南西部にできた武士町を南新座と呼んだという。 一説には、当初は新座と称していたが、寛永十四年(一六三七)に西新座の武士町ができたときから ...続きを読む |
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新職人町の町並み |
2013. 12. 3(火) |
観光 / 町歩き 城西地区 |
新職人町 【しんしょくにんまち】 森氏の入封後、具足師・研師・塗師・鞘師・銀工等、武具に関わる職人をこの地に配して職人町としたという。しかし、その時には、既に、城下町に美濃職人町があったため、新職 ...続きを読む |
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坪井町のトマト銀行 |
2013. 12. 11(水) |
観光 / 町歩き 城西地区 |
坪井町 【つぼいまち】 福渡町や勝間田町などと共に、移住者の出身地の地名を町名としたと伝えられ、坪井村からの来住者による町であると言われる。 また、当初、この町が城下町の市街の西端であったとして ...続きを読む |
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城代町の道路 |
2013. 12. 6(金) |
観光 / 町歩き 城西地区 |
城代町 【じょうだいまち】 寛永十四年(一六三七)、森家二代藩主長継が家臣の屋敷を置き、椿高下新屋敷と称したのが始まりとする。その後、承応二年(一六五三)の春に城代組の足軽屋敷を置いたため、城代町 ...続きを読む |
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細工町と家屋 |
2013. 11. 20(水) |
観光 / 町歩き 城西地区 |
細工町 【さいくちょう】 道路の北向かいを田舎の武家屋敷地に面する、南側だけの町である。城下町形成期には細工職人を置いたことが、町名の由来という。 城下町の形成から数十年を経た元禄十年(一六九七 ...続きを読む |
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椿高下にある学校 |
2013. 12. 11(水) |
観光 / 町歩き 城西地区 |
椿高下 【つばきこうげ】 城下町北西部の丘陵上に位置しており、田町から続く広い武士町を形成していた。町名はかつて椿が群生していたことによるとされるが、定かではない。 現在の津山高校付近では、発掘 ...続きを読む |
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北町の宇田川興斎旧宅跡 |
2013. 12. 10(火) |
観光 / 町歩き 城西地区 |
北町 【きたまち】 津山城の北側に形成された武士の町で、津山城の北麓にあたるため御北と称したと言われている。北部の山北村との境界には、東西に一直線に続く松並木が設けられていた。 松並木の北には田 ...続きを読む |
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数多くの古い建物が現存する田町 |
2013. 12. 11(水) |
観光 / 町歩き 城西地区 |
田町 【たまち】 江戸時代を通して中・上級武士の屋敷が建ち並ぶ武家地であった。町名の由来は元この地が田園地帯であったからとも、町内を縦横五本の道路が直行し、「田」のようであるからとも伝えられている ...続きを読む |
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上紺屋町という町並み |
2013. 11. 28(木) |
観光 / 町歩き 城西地区 |
上紺屋町 【かみこうやまち】 森藩では、城下町建設の初期に、染め物を業とする職人を集め、この町に住まわせたといわれる。十七世紀中頃の絵図によれば、その当時は本紺屋町と呼ばれていた。 その後しばら ...続きを読む |
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下紺屋町という片面に広がる町 |
2013. 11. 23(土) |
観光 / 町歩き 城西地区 |
下紺屋町 【しもこうやまち】 染め物を業とする職人の町で、町人地と武家地を区切って東西に延びる大溝の南側に配置された。 当初は、道路の片側だけの町並みという意味で、片原紺屋町と呼ばれていたが、十七 ...続きを読む |
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戸川町と妙法寺 |
2013. 11. 9(土) |
観光 / 町歩き 城西地区 |
戸川町 【とがわまち】 森忠政が津山の城や城下町を築く前には、留川(富川)という清流のほとりに戸川(富川)町という市場町があり、毎月一日と十五日には市が立って賑わったという。 妙法寺に伝わる慶長 ...続きを読む |
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桶屋町と八頭神社 |
2013. 11. 11(月) |
観光 / 町歩き 城西地区 |
桶屋町 【おけやまち】 城下町建設当初に桶職人が集住させられたことからその名がある。江戸時代の絵図には、町の北側東西に走る道に沿って溝があり、この溝沿いの横町は小川町【こがのちょう】と呼ばれていた ...続きを読む |
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