西新町 【にししんまち】
早くから交通の要地として開け、元和年間の終わり頃には町家が立ち並び、林田新町と呼ばれていた。寛永三年に城下町に編入されてからは東西に分けられ、西新町、東新町となった。 出雲街道と吉井川の水運との交通の便に恵まれ次第に繁栄した。今も豪商の名残を残す家々が軒を連ねている。幕末の洋学者、箕作阮甫はこの地で少年時代を過ごした。復元された生家は、幕末頃のこの地域の典型的な町家造りとなっている。
西新町地図
西新町の町並み
箕作阮甫旧宅 【みつくりげんぽきゅうたく】 開国の幕末日本で大活躍する洋学者・箕作阮甫の生家。 現在、その当時の町家のようすや暮らしのスタイルもうかがえるよう、忠実に復元してある。
箕作阮甫 【みつくりげんぽ】 津山藩医で洋学者。日本史にも出てくる結構有名な人物。津山駅の銅像はこの人。 一八五三年のペリー来航時にアメリカ大統領の国書の翻訳を任命されたほか、同時期にロシアのプチャーチンが来日時には、交渉団の一員として長崎に派遣されるなど、日本の開国に際して大いに才能を発揮した学者の一人。 開国後、本格的な洋学の研究・教育機関の必要性を認識した幕府は、一八五六年に蕃書調所を設立。 阮甫は、その首席教授に任命されるが、この蕃書調所が後に東京大学へと発展することに。「日本最初の大学教授」と呼んでも過言ではない。
津山洋学資料館 木造やレンガ造りの建物が組み合わさったような外観だが、実際は一つにつながった鉄筋コンクリート造り平屋建ての建物。 ホールと展示室の平面は、五角形を基本として、それを巧みに組み合わせた形であり、「津山洋学五峰」をモチーフとしている。新館建設にあわせて、市内各所に点在していた洋学者のブロンズ像も、前庭に集結させた。ブロンズ像の頭を触る小学生が多いそうだ。ご利益があるかも…
和蘭堂 【おらんだどう】 津山洋学資料館の敷地内にある『ナチュラルカフェ&ギャラリー』。観光案内所でもある。 ここで、「榕庵珈琲【ようあんコーヒー】」を一杯飲みに行ってはいかが?ちなみに、「宇田川榕庵」という人物が「珈琲」という漢字を作ったそうだ。
城東むかし町家(旧梶村家住宅) 城東むかし町家は、江戸時代における有数の商家である梶村家の住宅を津山市が購入・整備して一般公開している。 江戸時代末期の建築物の面影を残す主屋、明治初期の居住空間である付属屋、大正時代の洗練された技術や技法を知ることができる座敷、東蔵、また、大正時代に建築されたドイツ壁仕上げの洋館、裏座敷、さらには、昭和初期の大型商家の屋敷構えを知ることができる西蔵、茶室が、かつての面影を今に伝えている。
小路地図。城東昔町並み保存地区にある出雲街道と上之町を結ぶ道には通り名がついている。
札場小路 【ふたばこうじ】 「掟」や「定」などを公示する高札場があったことから名付けられた。当時の「定」には次のようなものがある。 「万年おごり致すべからず。屋作、衣服、飲食に及ぶまで倹約を相守るべきこと」 出雲街道を東から城下に入る人々は必ず目を通す所に掲げていた。
大隅小路 【おおすみこうじ】 上之町にある大隅神社の参道であることから、この名が付けられた。
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